- The Last Message -――深い静寂(しじま)の中。
気が付くと、彼―アルベルト・ハインリヒは異界に倒れていた――。
‥‥ゆっくりと、意識が戻って来ていた。起き上がろうとすると、頭の芯がまだくらくらする。
「ウ‥‥。」
少し呻(うめ)いてゆっくりと起き上がると、彼は慎重にそっと身体のあちこちを動かしてみた。特
に何処の機能にも支障は出てはいないようである。
が、その「異常がない事」をいぶかしく思う自分が何処かにいた。
「ここは‥‥？そして仲間(みんな)は‥‥？」
記憶が、混乱していた。
―それにしても、不思議な空間であった。うす蒼い霧が立ちこめていて、視界は全くさえぎられて
いる。伏していた地も、土や草の自然物の感触は無く、さりとて人工的な感じではない。歩いても足
音がしないのである。
ただ、ひいやりとした静謐さが空間に満ちていた。
「ちっ、いったいどうなってやがるんだ‥‥！」
いらいらして足下を蹴ろうとしても、小石一つ落ちていないのである。
――むやみと歩き回っても仕方がなさそうなので、彼はしばらく霧が晴れるのを待つ事にした。
「いつかの「村」のニフルヘイムみたいだな。」
と、一人ごちてみる。しかし、いつの間にこんな場所(ところ)に来たのか、何があったのか、思い
出せない不安が彼を苛立たせていた。
何か、重要な事を忘れていた。
――どの位時間が過ぎた頃だろう。
ふと気配がして、アルベルトは はっ とそちらに向き直った。
人影らしきものが、ゆっくりとこちらへと近付いて来る。思わず右手のマシンガンを構えて、息
を詰めた。緊張が走る。‥‥が、その姿をはっきりと捉えた時、彼は瞠目して呻(うめ)いた。
「ヒ ル ダ‥‥‥！」
（では、これは夢なのか。毎夜のように訪れた、夢。
人は何故何年も前に死んだ恋人を忘れられないのか、と言うかもしれない。だが、駄目なのだ。
まだ憶えている。こんなにも憶えている。彼女が振り返って俺を見て微笑む表情(かお)や髪が
揺れる様。抱き締めた時の肩の細さまで。――年を経てなお一層鮮やかさを増すその美しい残
像は、同時に胸に鈍い痛みをもたらす。‥‥あの時、もっとうまくやっていれば、彼女は。
彼女を喪失(うしな)った当時の吐くような苦しみや狂うかと思った絶望、が嵐のように去った
後も、今もまるで昨日の事のように癒えない傷に血が滲み、苦い悔恨が責めたてる。
何度も、彼女の夢を見た。これはその夢の続きなのだろうか。）
ゆっくりと、ヒルダは近付いて来て手を差し伸べた。ひんやりとした手が、そっと頬に触れる。
「アルベルト‥‥‥。」
懐かしい声が彼を呼び、そしてゆっくりと彼の首に腕を回した。
「ずっと‥‥ずっと待っていたの。‥‥寂しかった。」
そっと、彼は彼女を抱き返した。‥‥とその時、耳の奥の方で微かにノイズのような「声」が響
いた。
（………!）
（？）と気がそれた彼に、ヒルダは
「ねえ、‥‥一緒に‥‥来てくれるでしょう？」
と、訊いた。
何処へ、と問いかえそうとしてぎょっとした。彼女の背にまわした手に、ぬるりとした感触があ
った。――血だ。いつの間にか、腕の中のヒルダは血まみれになっていた。
（悪夢の方か‥‥‥）
苦い嘆息を漏らして、彼は目が覚めるまで耐えようとした。
が、「いつも」と感覚が異質だった。彼の中で長年培って来た勘、が危険信号のシグナルを鳴ら
し始めた。同時に、さっき微かに聞こえた「声」がまた警告を発するように響いた。
（‥‥‥‥‥！）
と、「ヒルダ」がめりめりとまわした腕に力を込め、ずるり、と何処かへ引き摺り込まれるよう
な感覚が彼を襲った。
「‥‥離サナいわ。いキマしョウ、一緒ニ‥‥！」
（違う！）
と確信した彼は、禍々しいモノと化した相手を振り解こうとしてもがいた。が、何故か力が入ら
ない。触れられている所から、力が吸い取られていくようだった。
（く、くそっ、こんなところで‥‥！）
と、気が遠くなりかけたその時。
『・・Ｎｅｉｎ・・・（駄目）！！』
あの「声」と伴に霧を裂くようにして、さあっと一条の光がさし込んだ。
と、同時に「ヒルダ」の形をしていたモノは、光に当たって霧散するように崩れて消えた。
光を背にして一人の人物が立っていた。
‥‥いま一人のヒルダの出現であった。
息を荒く、膝をついて喘いでいる彼の許に、ゆっくりと、透んだ瞳に切れるような切ない表情を
たたえてもう一人のヒルダは近付いて行った。そして警戒している彼のそばに膝まづき、しなやか
な腕を伸ばしてまだ力が入らない彼の身体をふわりと抱き締めた。
「やっと、会えた。」
熱い涙が彼女の頬から流れ落ちて、ぱたぱたと彼の肩を濡らした。
温かな身体。花と陽の光の匂いがする髪が、さらさらと肩で揺れた。
「‥‥ずっと「あの時」から、私はあなたのそばにいたの。でもあなたの絶望はあまりに深くて、
固く閉ざされていて、あなたは私を見てくれなかった。違う次元から、ただ見ているしか出来なか
った。
‥‥ずっと‥‥ずっと、辛かった。私の死を、あなたが自分のせいだと責め続ける事が。あれは
あなたのせいではないわ。だって、亡命しようとしたのは二人で決めた事でしょう？私は死んで、
あなたは生き残った。運が、悪かっただけの事。
さっきの「あれ」は、この空間があなたの心の闇の部分に呼応して生み出した私。
――私はあんな事を望んでいたりはしないのに。」
「彼女」は確かに「自分の言葉」で語っていた。そしてその身体には、意志を持つものだけが持つ
確かな存在感と内包する力強い輝きが在った。
「では‥‥では君は‥‥｢本当の｣ヒルダ、なのか？」
アルベルトは、震える手を彼女の背に回し、万感の想いを込めて彼女を抱き締めた。彼の頬にも、
一筋の涙がつたった。
そのまま、しばらく二人は堅く抱き合った。長い間に積もったもどかしいばかりの激情や言葉に
ならない想い、が二人の間を満たしていった。
――長い抱擁の後、ヒルダは身体を離し、彼の目を見つめて決心したように言った。
「アルベルト‥‥。私はある「力」を借りて、実体化する事ができたの。あなたには、使命がある。
あなたは、戻らなければ。」
「戻る？‥‥そういえば、ここは‥‥何処なんだ？」
「‥‥ここは、この世とあの世の境目。あなたは、死んだの。母なる大地、地球から遠く離れた場
所で‥‥。でも、あなたの仲間の一人が宇宙の偉大な意識体と融合して、喚び戻そうとしている。
私はその力の一部を借りてここへ来たの。
もうすぐ、さらなる光が、来る。そうすればあなたは「戻れる」わ。」
「死んだ‥‥？」
そうか、とアルベルトはやっと思い出した。自分は、あの要塞で爆死したのだった。
「‥‥無理をしたわ。もうすぐ、力は、尽きる。もう、あなたのそばに留まる事はできない‥‥。
こうして「会う」事ももうできないでしょう。
―でも、忘れないで。短い人生だったけど、私はあなたに逢えて、幸せだった。私はあなたを責
めてはいない。だからあなたも自分を責めないで‥‥！辛そうなあなたを見るのは、とても、辛い。
‥‥そしてどうか自分で自分に付けた枷(かせ)を解いて。機械の(どんな)身体だってあなたはあな
たじゃない‥‥！そして新しい伴侶を見つけて幸せになって。それが、私にとっての救いになるの
だから。
それを、それだけをどうしても伝えたくて、あなたを迎えに来るこの役割と時間を貰ったの。」
「判った。‥‥‥判ったよ、ヒルダ。」
二人は、もう一度抱き合った。彼女から、温かなエネルギーが伝わって来て彼を満たした。あら
ゆる赦(ゆるし)が降りてきて、暗く凍てついた心がゆっくりと溶かされていくようだった。
――長い間、負の存在に変容する事なくただ見護り続けてくれた。そして、仲間が望んでくれた
「復活の願い」を通して「力」と同調(シンクロ)した時、彼女は願った。祈ったのだ。どうしても会
いたい、と。どうしても伝えたい事があるのだ、と。
‥‥たとえ、それが最後になろうとも――。
（願ったのは、ただ、彼の幸せ）
ただその一心でこんな所まで来てくれたヒルダの想いを考えると、切なかった。
すまない、と思った。 ――愛おしい、と思った。
自責の念を込めて、彼は思った。
“ ― もっと強くならなければ ― ” と。
「無理を、させたね。」
アルベルトはヒルダを抱き締めながら、全ての想いを込めて静かに言った。
「‥‥すまなかったな。ずっと、そばにいさせて。気付いてもやれないで。
心配を、かけたね。――僕はもう大丈夫だから。どうか安心して「いくべき所」へいってくれ。
‥‥ありがとう、本当に――。会えて、よかった。嬉しかったよ。」
これで、最後。
――ヒルダは、返事の代わりにぎゅっと抱き返す腕に力を込めた。
最後に、二人は接吻を交わした。
「愛しているよ、ヒルダ。」
「愛しているわ、アルベルト。」
やがて、さあっと光がやってきて二人を包み、涙を瞳に溜めながら穏やかに微笑むヒルダの美し
い笑顔が、残像となって光に溶けた。
さあ、還るのだ、仲間の許へ。
ヒルダがその身を遂して伝えてくれた言葉(メッセージ)を抱き、新たな決意を胸に、アルベルトは
光に呑まれていった。
彼の第三の生、の始まりだった。
-Ende-
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